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 私達が活動している六軒と呼ばれる印西市木下、大森地区。この地域には「利根川」とその支流である「六軒川」、「弁天川」、「手賀川」が流れており、この地に住む人々はこの川と共にあり、歴史を育んで来たと言えます。かつて先人がこの地を開拓し、江戸・明治期には蒸気船が往来する木下河岸として栄えたほどの古い歴史を持つ地域なのです。ここでは、木下、大森地区に親しんで頂くために、「いんざい水辺の歴史」としてこの地の歩みをご紹介致します。

 手賀沼の新田開発についてですが、手賀沼のあたりは,利根川の流路を東に替えて銚子方面へ流すようになると,上流から運ばれた土砂の堆積によって湖沼化が進みました。周辺ではたびたび干拓や開田が試みられました。
 1655年(明暦元年)江戸の鮮魚商「海野屋作兵衛(かいのやさくべい)」らが,新田開発の願書を幕府に提出します。そこで関東郡代「伊奈半左衛門(いなはんざえもん)」が現地調査をします。1662年(寛文2年)利根川の布佐・布川間の狭窄部の締め切り工事が始まります。実はこの間は,陸続きでしたが,利根川東遷事業に伴い開削しました。その部分を再び締め切って新利根川を掘り,霞ヶ浦へ流し込む様にします。そうすると,利根川に接している手賀浦や印旛浦は低湿地帯で新田開発に有利な条件ができます。

 1662年(寛文6年)締め切りが完成しました。幕府は,利根川下流沿いの埜地や沼地の新田開発を仰せつけました。しかし,新利根川が洪水を起こしたり,川本来の働きをないこともあり,1669年(寛文9年)再び締め切りを解きました。そうすると,手賀沼の水位が上がり,沿岸の農民は大変困窮しました。

 1671年(寛文11年)第1回の海野屋作兵衛等による,町人請負新田開発が始まりました。
 布佐堤,築留堤が築かれます。築留堤に3そうの入樋が伏せこまれます。また築留堤に続いて木下境まで六間堤が築かれました。
 一方,手賀新田請負人によって,沼口から木下手賀沼落堀(弁天堀)が築かれます。距離810間,幅7間でした。更に,木下から小林下までの2298間,内堤と外堤が築かれ,幅6間の川に仕立てられた落堀が五ヶ村の百姓によってつくられました。そして,230町歩の新田ができました。

しかし,1675年(延宝3年)利根川の大水で,五ヶ村堤が切れて手賀沼落堀が埋まりました。そこで,五ヶ村堤の内堤に長さ1566間,堀幅7間の落堀を作り,笠神から印旛沼へ流し込みました。しかし,利根川の大水で入樋が破壊して,布佐堤,六間堤,五ヶ村堤が決壊したりしました。

海野屋作兵衛とその子孫の新田開発は結果的には失敗に終わりましたが、現在の新田開発の礎となりました。
発作の手賀川沿いには手賀沼開発の先駆者としての偉業を讃え「海野屋作兵衛の頌徳碑」が建立されています。
 1727年(亨保12年)幕府による第2回目の新田開発が行われました。「伊沢弥惣兵衛(いざわやそうべい)」の指揮のもと,「高田茂右衛門」が沼内に「千間堤」を築き,手賀沼を上沼(西側)と下沼(東側)に分け,上沼の水を沖田下より水路を設けて浅間落,六間堀へ分流して利根川に排水させました。一方,下沼の水は,中央に水路を造り,また弁天堀の堀幅を7間から10間に拡張して木下前入樋より,笠神地先印旛沼へ排水させました。
 また,南岸に連続する山林や高地の落水は,金山落を作り流しました。すなわち,金山 → 名内 → 平塚 → 亀成 の村々を経て,発作村から関枠に通し、筧を以て浅間堀に合流させ,六間堀に排水させました。その結果,新田は大いに拡張して,200〜500町歩の新田ができました。そして,1500石の高入りを得ました。
 しかし,1738年(元文3年)大水の為に、千間堤が決壊して,下沼開墾は10ヶ年で滅亡してしまいました。

 1739年(元文4年)相島新田名主佐次兵衛等による組合自普請による第3回手賀沼開発が始まりました。亨保の金山落堀を廃し,新たに金山落堀を幅1間8尺,長さ1300間堀って木下前まで増設しました。
 また,木下前より六軒まで180間の堀を掘り,弁天堀で水が余った時に六軒入樋へ分流するようにしました。そして,笠神落を廃し,竹袋村金戸より平岡村蒔俵まで長さ1200間,幅13間の水路を掘り,枝利根川南岸を通過して2艘の入樋より小林村地先へ排水させました。
 1740年(元文5年)木下前の向堤を自普請し,布佐の高台下から五ヶ村に至る連続堤が完成した。しかし,利根川大水のために,蒔俵入樋が破壊して手賀沼新田は大被害を被ります。

 1785年(天明5年)第4回の手賀沼開発が田沼意次によって行われます。
浅間堀,六軒堀,六軒入樋は従来の通りとします。沼口より弁天堀分かれ目に至る水路を14間から20間に広げます。枝利根川へ利根川の水を入れないように新しい堤を築き,元文の時に作った蒔俵の水路にならい,枝利根川に排水させさせました。同所より下流は印旛沼落に変更しました。しかし,利根川洪水により,新堤が決壊して手賀沼新田は大災害を受けました。

 幕末は利根川の水路が変遷したり,浅間山の大噴火により利根川の川底が上昇したりして,手賀沼排水に大事な狭堤が年々の水害で破壊しました。そのために掘は埋まり閉ざされる所が多くなり,沼には,水が溜まり,排水悪く水害が益々多くなりました。このために,沿岸民は大変疲弊しました。このように手賀沼の開発は失敗の連続でした。その後,明治,から昭和にかけて,利根川の改修で沼の水位が減ると大規模な開田が行われました。特に第二次世界大戦後から昭和43年に国の干拓事業がおこなわれ,残っていた沼の面積の約45%が埋め立てられました。最初の開発から実に300年後でした。
 さて,「弁天川」についてです。寛文11年(1671年)第1回目,手賀沼開拓の為の落とし堀として築かれました。元々,2間幅の川を7間に広げ,沼の水を弁天川から木下を通り小林下,枝利根川に排水する大工事を行いました。それと合わせて,布佐堤,六軒堤,五ヶ村堤等利根川に堤を築き,沼の田を広げていきました。江戸時代には,4回の大規模な開拓工事を行いましたが,たび重なる洪水のために失敗しました。しかし,失敗を繰り返しながらも,徐々に耕地を広げていきました。

 延宝3年(1675年)大森の大庄屋宮島勘右衛門が請け方となり,六軒箱新田が開発されました。
 これが,六軒の始まりです。六軒草分けの集落はこの左手一帯であり,「弁天様」と呼ばれ,人々に親しまれている厳島神社があります。勘右衛門が安芸の宮島より勧請したものと言われています。

↑現在の弁天川

 平成10年,この水神橋が新しく築かれました。元々の弁天橋はここにあり,街道もここを通っていましたが,天保年間に竹袋の人によって壊され現在の場所に付け替えられ街道も移動しました。
 左手に松竹館と言う映画館,その隣に薬屋,また、繭を乾燥して保管するための六軒倉庫が資産家達の共同出資で作られました。橋の付近には染め物工場,利根川の腹水を利用した作り酒屋,その奥の方に醤油工場,2軒の澱粉工場がありました。左手に大きな呉服屋,作り酒屋,銀映という映画館,他にも製糸工場があり,繭を煮る臭いがあたり一面にただよったそうです。中央公民館のあたりには煉瓦工場がありました。日清戦争の前後から日本は繊維を中心に軽工業が盛んになり,その影響は六軒地区にも及びました。

 製糸工場,染め物工場,農家の家内工業による機織り,繭の仲買や倉庫の建設また,染色の専門家養成を目指して、印西組合女子補修学校がつくられました。
 これは,印旛高等学校女子部の前身です。この左手,右手の畑地一面は桑畑でした。

 弁天川の東側の端にあるのが、昭和31年に完成した手賀排水機場です。土手が頑丈に高くなり,また,大正14年頃木下に煉瓦作りの水門ができました。このために,利根川の越水や逆流,土手の崩壊を防ぐことができましたが,沼を中心として内側に溜まった水を排水することができずに,昭和13年や16年のような内水の害に悩まされました。この機場には直径1700?のポンプ6機設置してあります。当時,東洋一の機場でありました。そして,手賀沼と利根川の水をコントロールして,この地方の水禍を一気に解決し,手賀沼の新田開発は元より,沼や周辺の田圃の改善を図りました。
 六軒の新道(国道356号)には、煙草、塩、油などの問屋,有名な川鮮料理屋、大変繁盛した割烹旅館、近郷近在の農家から生産物を扱った青物問屋、繭の仲買店、団子屋、薪・炭屋、材木店、呉服屋など大小の店が軒をならべており、日常品の買い物はもとより、すべての買い物ができました。六軒金融の中心として、六軒商業銀行もありました。この様に六軒は、江戸時代の中期頃から昭和の中期頃まで非常に栄えました。明治30年代に刊行された書籍には「六軒は,船橋町に匹敵する商都である」とその繁栄ぶりが紹介されています。その繁栄ぶりは、当時としては,高価で珍しい欠き氷の販売をした「冷氷室六軒出張所」があったことからも伺えます。

 旧六軒堤(国道356号)には,せんべい屋,染め物屋,肥料屋,金物屋,材木屋などの店があります。また、川の途中には他にも六軒川と結びつく運河がありました。物資を手賀沼へ運ぶためのものでした。特に江戸時代の中記頃から銚子などで生産された「干鰯(鰯を天日で乾かして肥料に使う)」を扱う大きな肥料屋がありました。勤皇の詩人柳川星巌やその他,江戸の文人・墨客が逗留したと言われています。隣りの金物屋には、大正時代に夏目漱石の弟子森田草平が仮寓し、その友人達が訪問しました。また、この辺りに明治時代、利根川を運行する六軒汽船寄航場もありました。

 因みに、六軒橋付近には、北千葉揚排場があります。利根川の下流部(布佐)と坂川(松戸)を連絡し,利根川に注ぐ手賀川と江戸川に注ぐ坂川周辺の内水氾濫を防ぐ,都市用水,手賀沼と坂川の水質を浄化する役目を果たしております。

 では,水運と六軒の関係を瀧田商店を例にして説明いたします。瀧田商店は江戸時代の後期から煙草の製造や販売,また,塩を中心にして手広く商っておりました。特に,煙草や塩が専売になった明治後期から昭和にかけて,成田や印旛郡管内はもとより,香取郡や東葛郡の一部までの総元締めでもありました。
 江戸(東京)等から仕入れた物資を高瀬船で仙助河岸で荷揚げし,そこから荷馬車で店まで運びました。商品の小売店への販売は自家所有の発着所から小舟で手賀沼を渡り白井,沼南,柏,我孫子方面へ,木下河岸から利根川を下り安食河岸から印旛沼を渡り印旛村方面へ,そして,徒や荷馬車で台地の大森や白井方面へ運びました。
 一方,手賀沼や利根川を渡り,近郷,近在の多くの人々が六軒の商店へ来ました。この様に六軒は水運に恵まれ,また,西は布佐,東は木下,北は布川という大きな集落に囲まれており商業の中心として繁栄しました。

明治12年から明治35年まで活躍した
蒸気船「銚港丸」


東京・銚子間直行便
第5銚港丸外輪カバー


明治10年代中期の利根川と木下
 最後に手賀沼の環境について説明いたします。元々手賀沼は水がきれいで,風光明媚なところでした。沼は植物や魚,鳥,小動物を温かく包み込む宝庫でした。
 昭和30年頃までには,水が透き通っていて泳ぐこともできたし,貝も足の爪先でとることもできたそうです。そして,江戸時代より手賀沼の鰻は江戸(東京)で有名でした。また、鴨猟や藻狩り業も盛んでした。ヨシ,マコモ,ハス等の40種類以上の水性植物,ノウサギ,アゲハ,オニヤンマ等の動物や昆虫、カモ,オオバン,キジ,セキレイ等の鳥,コイ,フナ,ウナギ,エビ,ミジンコ等の魚や水の生物がたくさん生息していました。しかし,沼の周辺の宅地開発によって,生活排水が注ぎ込み沼は汚染されてきました。汚染度は,いつも印旛沼とワースト1,2を争っていたことは,皆さんご存じの通りです。
 しかし,北千葉揚排水場の設置,手賀沼流域汚水処理場の働き,沼の浄化に向けて努力する人々の努力等によって,水質復元率は全国一で徐々に美しい沼に回復しています。美しい自然環境を未来に生きる子ども達のために残すことは,私達,大人の責務であると考えます。

 歴史というものは、知ってみるといつの時代も人々が「豊かになりたい」という幸せを求める姿がそこに感じられます。地元の風景もそんな目で見てみるとまた違って見えるのではないでしょうか?
 川沿いを歩くとき。穏やかな田園風景を見るとき。機械もない時代に、先人達がどんな風に日々暮らしていたのか想いを馳せてみるのも良いかもしれません。


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写真提供:木下まち育て塾

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